山田圭一『フェイクニュースを哲学する 何を信じるべきか』(岩波書店)
(2024年9月読了)
どうすれば、世に氾濫する情報を取捨選択し、「真なる信念を最大化し、偽なる信念を最小化すること」ができるか。これは哲学では認識論と呼ばれる分野で議論されていることがららしい。この問題設定は、近年社会問題と化しているフェイクニュースや陰謀論に対処する上で重要である。そこで本書は認識論の知見を援用しつつ、これらの問題に対処する実践的な処方箋を与えることを目指している。
本書ではさまざまなトピックが議論されているが、とくに第3章では専門家不信の問題が取り上げられている。たとえば、原発事故や感染症パンデミックに際して、インターネット上ではきわめて多様な情報が飛び交った。このような状況では、われわれはいったい誰の発言を信じればよいのだろうか。理想的にはわれわれ自身で教科書を紐解いて専門知識を身につけ、それに基づいた判断を下すのが望ましい(「直接的な正当化」)のだが、専門外の人間が一から勉強を始めるのは困難である。そこで本書は、当該の発言をしている「専門家」の信憑性を評価することで、間接的に情報を評価することができる(「間接的な正当化」)と主張する。具体的には、論証の形式、過去の証言の真偽、利害関心、他の専門家による評価、査定に基づく資格や業績、に注目することを提案している。
しかし、これはアカデミアで強く戒められる「権威に訴える論証」に陥っているようにも見える。いかにきちんとした専門家でも大災害やパンデミックのような未曽有の事態については正しい判断ができるとは限らないし、査読を通過して出版された論文もしばしば誤りを含んでいる。本書の処方はあくまで「どちらかの主張が相対的により信じられるかを判断するための可謬的な根拠」(109頁)であり、苦肉の策のように思われてしまう。重大な問題については「直接的な正当化」を目指すという理想を持ち続けていきたい。
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