安部公房『榎本武揚』(中央公論新社)

(2025年3月読了)

 榎本武揚は幕末期に活躍した幕臣であり、戊辰戦争では函館の五稜郭に立てこもり旧幕府側の最後の抗戦を指揮したことで知られている。維新前にオランダに留学した経験がある知識人でもあり、新政府では逓信大臣や文部大臣等の要職を歴任している。このような経歴から近代日本の礎をつくった偉人とみなすこともできる一方、幕府側から新政府側に転向した変節者とみることもできるかもしれない。
 本作は榎本武揚が軍艦を引き連れて江戸を脱走してから函館戦争に至るまでを描くある種の歴史小説ではある。しかし、本作の大部分は新撰組隊士浅井十三郎の手になるとされる《五人組結成の顛末》という文書の転載という形式になっており、武揚本人の視点からの描写は存在しない。十三郎は幕府への忠誠を貫く土方歳三に心酔しており、「武揚は本気で新政府軍に対抗するつもりがないのではないか」という疑いの下で《五人組結成の顛末》を記述している。そうした強いバイアスのために真実は不明瞭であるものの、武揚は勤皇でも佐幕でもない第3の道をとることによって、日本が外国に干渉されることを阻止したのだとされる。
 本作で描かれる武揚像がどれだけ史実を反映しているのかはともかく、実在・虚構の史料の入れ子構造によって歴史に深く分け入っていく感覚が得られて楽しかった。

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